2023.11.13

満を持して

満を持して

私の父は、買ってきた家具や電化製品の裏に購入日と自分のサインを書く謎のルールがあった。自分の名前を崩した有名人が書くようなサイン。母や兄弟は呆れていたけれど、私は密かに憧れていたため、後に自分のサインも考えてもらった。

習得した後は、ノートの隅に書いたり、友達と交換する手紙の最後に書いたり、ひっそりと存在し続けていた。

ところが、2023年の夏。思いがけないことが起こる。

ご家族で宿泊されていたお母さんから、本を差し出され「おふたりそれぞれのサインを書いてもらえませんか」とお願いされたのだ。

かつてこの宿を自宅として使っていたいしいしんじさん著の「みさきっちょ」は、三崎の出版社、アタシ社から出版されている。三崎での出来事や町の人々との交流が記されていて、その中にichiでのエピソードも綴られているのだ。

作者でもない私たちが書いていいものかと最初は躊躇したが、こんなチャンスは二度とないかもしれないと、ペンを取る。

この先もひっそりと存在し続けるだけかと思っていたサインが、38年間の沈黙を破り日の目を見る。

書き終わった本を手渡すと、「ありがとう!!」と嬉しそうに受け取ってもらえた。

恐らくこのタイミングで使う言葉じゃないと怒られそうだけど、宿を続けてきてよかった。

ゆみ